わたしたちの本棚

2014/10/03

わたしたちの本棚

知性を磨く「スーパーナチュラリスト」の時代 / 田坂広志著

ボクがこの本を読んでいるとウチの小林が「竹田さんもそんな新書を読むようになったらオワリですね」と、小生意気なことを言ってきた。ヤツは別にこの本の内容について難癖をつけているわけではなく、「知性とは何か、なんて命題に対して、手っ取り早く他人が考えた結論だけを手に入れようとするのは安っぽい生き方じゃないですか?」と言いたい訳だ。

この本にもちょこちょこ出てくるカント、ヘーゲル、マルクスといったお歴々のとっても難しい本をこよなく愛する変人ですからね、まあ、ヤツは。言いたいことはわかります。わかるけれど、残念ながら人生の残り時間も限られている中年オヤジとしては、この手の本でわかった気になりたい、というのが本音のところでございまして。

で、ですね、ものすごくわかった気にさせていただける本でした。世の中のさまざまな諸問題や日頃仕事通して気になっていることなんかも著者の鋭い切り口で切ってもらえると、とても良くわかるのです。ただし、文中に書いてあるとおり「知識」と「智慧」は別でして、わかった気にさせてもらった以上は、自分で鍛錬して「智慧」にしていきなさいよ、ということが肝要なわけです。

そんなわけで、この本の中でボクがビビビときた「切り口」のいくつかをアフォリズム的にご紹介します。

・・・・・・・・・・・・

野心とは、己一代で何かを成し遂げようとの願望。
志とは、己一代では成し遂げられぬほどの素晴らしき何かを、次の世代に託す祈りのこと。

・・・・・・・・・・・・

真の知性は、「戦って相手を打ち倒し勝つ」ことに価値を置くのではなく、「無用の戦いをせずに目的を達成する」ことに価値を置く。なぜなら、どのような戦略にもそこには「(部下や社員の)かけがえのない人生(の時間)」が懸けられているのだから。

・・・・・・・・・・・・

「21世紀、戦略とは最高のアートになっていく。」

・・・・・・・・・・・・

「言葉で表せる知識」が価値を失っていく時代、相対的に価値を高めていくのが「言葉で表せない智慧」である。高度情報化社会において求められるのは本来「智慧の修得法」とでも呼ぶべき「メタレベルの知性」。

・・・・・・・・・・・・

すなわち、「自分が見えている」ということ。
それは「知性」というものの原点でもある。

・・・・・・・・・・・・

ボクみたいに知性を磨く努力を怠ってその場しのぎの感覚で生きてきた人間には、短いページの中にたくさんの気づきを与えてもらえる本でした。言葉は平易だしあっという間に読めますが、読後感は「それなりの旅をしたような」ずしんとした感じになります。これも著者の本物の知性のなせるワザなのでしょう。

2014/09/19

わたしたちの本棚

Wabi-Sabi わびさびを読み解く for Artists, Designers, Poets & Philosophers / レナード・コーレン著

唐突ですが、最近“わからないもの”にすごく興味があります。もっと言うと“わからないもの”に可能性を感じるんです。わたしたちは何でもかんでも“わかりたい”、言い直すと論理的に、体系的に把握したいと思っています。そうやって、世の中のあらゆる事象を自分たちの方にたぐり寄せようとする。自分の陣地で戦った方が有利に立てるわけですし、理由が“わかっている”方が安心できる。当然です。

しかし、です。そうやって何でも“わかっている”という状態に持ち込んでいくと、新たな問題が発生します。今度は、(すでに)知ってしまったこと、つまり、取り込んでしまったことが面白くないのです。説明できるものはつまらない。わがままな話です(笑)。何でも知りたいのに、知ったら知ったで今度はつまらないと言い出す。あの子と何としてでも付き合いたいと思ってあらゆる努力をして、いざ付き合えるとなったら、何だかシラけてしまったというような感じでしょうか。

この話、マーケティングやブランディングの領域でよく語られる企業や商品・サービスの「差別化要因」みたいなものにも当てはまると思うんです。「これがこの商品の差別化ポイントだ!」「A、B、Cという3つの要因でこのサービスは競合サービスと差別化を図っているんだ!」などという会話を仕事柄よく聞いたり、したりします。が、そうやって論理的に、体系的に説明できてしまう差別化要因(=魅力)って、その時点で誰にとってもすでに知ってしまっているもの(=つまらないもの)になってしまっているのではないかと。そうやって、論理的に捉えることができたはずの魅力は掴んだと思った瞬間に手からこぼれ落ちてしまっているのではないかと。

裏を返すと、掴もうとして掴もうとして、それでもやっぱり掴みきれないようなところにこそ、本当の差別化要因、他の何物とも違う魅力が潜んでいるんじゃないか、と思ったりするわけです。

そんなことを思いながら、ふらっと立ち寄った書店で手にとったのが、わびさびとは何か?ということを解き明かそうとしている本書でした。(やっと本書の紹介にたどりつきました!)

わびさびという概念について示唆に富むさまざまな話が出てくるわけですが、今回はわたしの問題意識とつながる部分に焦点をあてて、手短にお話したいと思います。次の一文がすべてを言い表していました。

「わびさびが提示するのは、まさに解像度と微調整の問題なのである。」(P80)

「わびさびがデジタル形式のうちに存在できるか」という問題を取り扱ったところで出てきた一文。この「解像度」と「微調整」の問題が、論理的にすでに“わかってしまったもの”と“わからないもの”の違いをうまく言い当てているような気がしたんです。長くなりますが、もう少し引用します。

「デジタル形式では、わびさびが必要とする無限大の繊細さに応えることができない。以下は、その理由である。何かがデジタル化されるためには、事象の分析と「0」と「1」からなるバイナリーコードへの変換という2段階の手続きを必要とする。…(中略)…「無限大の繊細さ」(「リアルな」世界と等しい情報量)を表現するためには、文字通り無限のバイナリーコードが必要である。分析に要する時間も無限であり、記述されたイメージや物を表示するデバイスは無限の解像度を要する。…(中略)…「無限大の繊細さ」こそが「バーチャルな」世界に対する「リアルな」世界の基準なのだ。そして、わびさびが提示するのは、まさに解像度と微調整の問題なのである。」(p78-p80)

「0」と「1」からなるバイナリーコードへの変換を行う際に抜け落ちてしまった「無限大の繊細さ」。これこそが、「解像度」と「微調整」の問題であり、論理で説明しきれない“わからないもの”であり、そこにこそ他の何物とも違う魅力が潜んでいると思うのです。

著者は、デジタル化が進む世の中で「無限大の繊細さ」が希薄化の一途をたどることに警鐘を鳴らして本書を締めくくります。世の中が「0」と「1」だけで描き出せること、説明できることだらけになってしまったら、こんなつまらないことはありません。わたし自身、何でもすぐに論理立ててしまいがちなので、“わからないもの”をわからないままに魅力あるものとして受け入れることのできる人間になりたいものです。

2014/08/22

わたしたちの本棚

共感の時代へ-動物行動学が教えてくれること
/ フランス・ドゥ・ヴァール著

ソーシャルメディアなるものが世に出てきてからというもの、やたらと「共感」という言葉が出回るようになりました。わたしたちもソーシャルメディアの運用に携わらせていただくことが多いこともあり、「共感」というキーワードをよく用います。ですが、そもそも「共感」って何なんでしょう?よく使っているわりに、わたし自身もその正体についてはあまり把握できていない気がしました。これではいかんと思い、手にとったのが今回取り上げるフランス・ドゥ・ヴァール著の『共感の時代へ-動物行動学が教えてくれること』( 紀伊國屋書店 )です。

著者であるフランス・ドゥ・ヴァールは、サルやチンパンジーといった霊長類の社会的知能研究で世界の第一人者として知られている動物行動学者。彼は、「共感」という能力は人間特有のものということではなく、生物の進化の中で獲得されてきた生得的な能力だと主張します。この考えは非常に受け入れやすいもののように感じました。なぜなら、サルだって、チンパンジーだって、集団を形成する生物であれば、相手の感情や意図などを即座に感じ取り、その相手と協調行動を取ったりすることができなければ、生きていけないことは容易に想像がつくからです。人間じゃなくても、他の生物との関係性のなかで生きていることには変わりはないわけです。「共感」は、太古の昔から生物の生存確率を高める重要な手段として進化してきたのでしょう。

共感の根っこには、まず「情動伝染」があると彼は言います。つまり、他者があくびをすれば、自分もあくびをしてしまう、他者がいまにも吹き出しそうになるのを必至でこらえている姿を見れば、自分にも何故だかじわじわと笑いが伝染ってくる、そういった身体的な同調作用が他者への共感の前提を形作っているというのです。表情やボディランゲージを介した気分の伝染がとても強いのは、このせいでしょう。ここで大事なことは「頭」でなくて「身体」で共感できるということ。つまり、意識的な決断によって共感するのではなく、身体側で無意識的に共感するのです。先に「身体」が判断を下してくれて、それから「頭」の方で後追いし、もっともらしい言い分をつくるというわけです。共感は「頭」でするものじゃないんですね。

ただ、「情動伝染」だけで、「共感」という能力を形づくることにはならず、他者への気遣いやその相手の立場になってみるという「視点取得」といったより精緻な能力が進化の中で加わることで、われわれ人間が行うような高度な「共感」に発展したようです。冒頭で述べたように、「共感」にも長い歴史の積み重ねがあるのですね。

本来的には、絶対に知り得ることのない他者の気持ち。そして、その裏返しとして、絶対にすべてをわかってもらえることのない「わたし」という存在。それをどうにかして知りたい、伝えたい、その不可能性をどうにかして突き破りたい。人間にはそういう欲求が備わっているように思えてならないわけですが、本書では、それが人間に特有の欲求ではないことを膨大な研究データを用いながら、証明してくれます。他者を理解したい、自分を理解してほしいという、その不可能性への試みが、1億年以上も遡って、人間がこの世界に現れる以前からすでに始まっていたこと、そしてそれが「共感」という能力の獲得の歴史でもあったということを本書は教えてくれました。

最後に、ソーシャルメディアと「共感」の話を少しだけ接続させて終わりにしたいと思います。毎日他者と感情を共有していると、お互いが相手を自分の中に「取り込み」、ついにはわかち難い仲であることが誰にも見て取れるまでになると本書では述べられていました。長年連れ添った夫婦が似てくるというのもその結果なのでしょう。だとすると、ソーシャルメディアを通して、日常的にファンと交流を行っていくことで、企業と生活者がお互いを「取り込み」ながら、双方に"かけがえのない存在"になっていく可能性というのは十分に考えられるでしょう。あらゆる企業が脱コモディティ化と戦っていて、差別化ポイントを探し出すのに躍起になっている現状のなか、お客さまにとってその企業が"かけがえのない存在"になっていくためのひとつの手段が現れた。ソーシャルメディアの登場とは、多くの企業にとってそのような意味と価値を持つのではないでしょうか。

2014/08/11

わたしたちの本棚

表現の技術 / 髙崎卓馬著

今回の「わたしたちの本棚」は、髙崎卓馬の著書「表現の技術 -グッとくる映像にはルールがある」を取り上げます。

“表現の使命はひとつ。その表現と出会う前と後でその表現と出会った人のなにかを1ミリでも変えること。”

この言葉、ぐっときました。

何かを表現しようとする行為、例えば写真を撮る、絵を書く、音楽をつくる、演じる、文章を書く…など、あらゆる「表現」を考えるときの方法論と心構えがこの本には書かれている、私はそう感じました。

例えば以下の方法論、いろいろな作品に応用がききます。

“想像を利用して、予想外の展開をつくり出す”
“「ズレ」をつくることで、面白さの起点となる”
“物語は登場人物が進めていくようにする”
“一つのシーンを深く追うことで「物語」化する”
“登場人物と観客に葛藤を共有させる”

でもさらに私がぐっときたのは、「心構え」の方でした。

“あらゆる段階で、あらゆる角度で、自分のつくっているものを徹底的に疑う”
“疑う心を常にもっておくほうが、よりよいものを生み出す”
“今つくっているものが、世の中にとってどういう意味を持つのか、ということを考えて理解する”

変ないい方ですが、読んでいて自分たちのやり方に自信が持てたというか、自分たちも結構これと似たような取り組み方をしてきたように思えたのです。そのことがちょっとうれしかった。

昨今、従来のマスメディアはもう「時代遅れ」だの「オワコン」だのと言われ、「キュレーションメディア」や「オウンドメディア」を代表とする新しいメディアが注目されたりしています。でも時代が変わればメディアが変わるのは当たり前のことであって、そんなことより大事なのは「表現しているもの」そのものなんじゃないかと、私は思います。

「人に何かを伝え、その人の何かを1ミリでも変える。」
この想いこそがいちばん大事なんじゃないかと、改めて確認できました。

著者に感謝したいと思います。

2014/07/31

わたしたちの本棚

競争優位の終焉 / リタ・マグレイス著

世の中の変化のスピードがどんどん早くなっています。ビジネスの世界にもたくさんの大きな変化が起こっており、その一つが「既存の市場セグメントの喪失」だと言われています。今やビジネスは競合企業との単純な差別化を争う時代ではなくなりました。業界、地域、価格帯といったこれまでのセグメントが急速に消失しつつある現在、オープンフィールドに立たされた企業は否応なく経営戦略の舵取りを迫られていす。

確かにここ10年ほどで起こった市場の変化は、これまでとは様相が異なっています。街角の本屋は姿を消し、若者はCDを買わなくなり、カメラは携帯電話の機能の一つとなり、映画はタブレットで気軽に鑑賞でき、入れたてのおいしいコーヒーが缶コーヒーよりも安くコンビニで買えるようになりました。これらの変化はすべて業界の垣根の向こうからやってきたものです。思わぬところから現れた大波になす術もなく飲み込まれてしまった、そんな印象を拭えません。

『持続的な競争優位の時代は終わりを告げた。』著者はそういい切ります。そして、『変化の激しい現代においても長期的な成長を続けるいくつかの企業たち(本書では『例外的成長企業』と呼ぶ)は、戦略の新たなシナリオを手に経営を進めている。すなわち、持続的な競争優位を求めるのではなく、フィールド全体を見渡しつつ、短期的で一時的な競争優位状態を絶え間なくつくり出す仕組みを構築している。』と述べています。

さてさて、ここからはボクの戯言ですからお許しを。ボクは他人の家にいくといつも感じるのですが、家にはそれぞれリズムのようなものがありますね。人の暮らしは習慣の積み重ねでできています。リズムとはその習慣そのものであり、また、習慣を繰り返す際のテンポのようなものです。お父さんの帰りを待って一緒にごはんを食べる家もあれば、先に食べちゃう家もあります。どっちがよいかではなく、そのリズムが家族という組織を成り立たせ、その家族らしさを生み出している。

企業も同じです。組織は生き物であり、それぞれが独自のリズムを脈打っています。多少の外的な環境変化があろうとも、組織のリズムというものはそうそう変化するものではありません。人も組織も習慣の生き物ですから、リズムが急激に変わっては生きていけないのです。なので、ボクらはお客様企業をお手伝いするときに、その企業のリズムをとても大切に考えます。リズムを肌で感じ、リズムに乗って、リズムを活かしながら、外部とのコミュニケーションを設計していく。そう考えると、「企業らしさ」というものの正体は、案外この「リズム」にあるのかもしれません。

さて、すべての企業は環境適応業であり、事業環境の変化には敏感に対応すべきであることは言うまでもありません。例えば、大正から昭和にかけて人々の暮らしが急速に洋式化していく時代の中においては、下駄屋は履物屋になり、さらに靴屋になっていかなければ生き残れるはずもありませんでした。もしそこを見誤れば、下駄屋どうしで競争しているうちにあっという間に市場から追い出されてしまう。おそらく同様に現代もまた激しい変化の時代であり、すべての企業は今まで以上にタイトで大胆な舵取りを迫られているのは間違いありません。

ただここで留意してほしいことは、「リズムだけは変えられない」ということです。変えられないものをムリに変えようとするとそこに歪みが生じ、時に致命的な傷に至ります。いくら崇高な「理念」や「ビジョン」、また練り尽くされた「戦略」や「分析」があろうとも、それを行為に変えているのは「現場」の小集団であり、一人ひとりの人間です。そして、その「現場」を動かしているのは、実は理念でも戦略でもなく、まるで人体における呼吸や鼓動のような、その組織固有の「リズム」に他なりません。

そのリズムをきちんと理解し、それに沿った戦略やシナリオを構築することは、外的環境の激しい時代だからこそ余計に求められているのはないかと、こんな本を読んでもボクはやっぱり思ってしまうのです。

COPYRIGHT (C) SUPER EDITION INC. ALL RIGHTS RESERVED.
Facebook 運用支援サービス